言語行為と発話解釈

言語行為と発話解釈―コミュニケーションの哲学に向けて

言語行為と発話解釈―コミュニケーションの哲学に向けて

 ようやく、終章まで読了。本全体の流れとしては、言語行為論で想定されるオースティンの慣習に力をおく言語行為論を批判したうえで、「意図説」の可能性を主張する(第一部)。そして、慣習的行為と区別される発語行為の範囲を確定しながら、「意図説」における二つの構成原理を捉える(第二部)。そして、意図説に基づいた発話解釈がどのような解釈プロセスを通じて生成されるのか、その条件をたどりながら、言語行為論における発語内行為の全体的な位置を見きわめる(第三部)といったところでしょか。他にも細かいところで、いろいろと勉強になった。
 いろいろと抜き出したものの、個人的におもしろかったところをピックアップすると、

  • 発語内行為の構成原理はとってもシンプルなものだよ。

 言語行為、とりわけその中心的なものとみなされる発語内行為は、その本質的なありようとしては、普通の意味で規約/慣習的なものではない。つまり、明文的なものにしろ暗黙のものにしろ、あらかじめ決められた一定の手続きや規則に一致したりそこから逸脱することによって、成立したり不成立になったりするものではない。それはむしろもっと直裁に、聞き手にたいする話し手の意図の明示ということを基本的な成立要件とする。しかもそのありようを底のところまで煮詰めれば、聞き手になんらかの信念をもたらそうとするタイプか、聞き手になんらかの行動を行わせようとするタイプのいずれかに縮約されてしまう。(187)

 与えられているのは、たんになんらかの世界の事態を聞き手に明示的に提示する、ということだけ。しかし、もし話し手と聞き手の間にコミュニケーションの構えがあり、そのなかで当の発話によって「非自然的に意味する」ための二種の意図の条件がみたされるなら、ただそれだけで、発語内解釈のプロセスは稼働しはじめるのである。手がかりは提示された世界の事態しかないが、しかし話し手や聞き手にとってのそのありよう――実現できることか否か、望ましいことか否か、それは誰にとってか等々――から、発語内行為にかんする基本的な解釈出力は得ることができる。しかも、現実的な日常的コミュニケーションにおいては、その程度の大づかみの解釈で必要十分であることもしばしばなのである。……要するに、決定的なのは形式的な表示装置なのではなく、提示されている世界の事態についての個別具体的な共通理解なのである。(269-70)

  • (上とつながるけど)意図を前提したものがコミュニケーションだよ。

 話し手が意味したといえるのは、執行的意図とコミュニケーション的意図それぞれを聞き手に知らせようとする意図を、なんらかの表現によって相互顕在的なものにした場合であり、その場合にかぎる。(136-7)

  • 発語行為とコミュニケーションはイコールではないよ。

 こうしてオースティンによって「発見」され、言語行為論の実際上の発端になった行為遂行的発話は、解釈プロセスのありようという点でいえば、特殊例のなかのさらに特殊例――すなわち、行為拘束型から派生する特殊例である宣言の、そのまた一部をなす特殊例――として、あらためて位置づけられるのである。(267)

 同一の言語的意味から異なる言語行為を生成するのは、発話の文脈、話し手の権限や職場の規則・慣行、そしてなによりもそれらを勘案した上での話し手の意図の特定であり、つまり個別具体的な事実のありようなのである。……もう少し慎重にいいかえれば、言語的発話はじかに発語内行為の生成に結びつくものではない。……言語行為は世界の事態の提示という核心を経由して、雑多な手段にひとしく結びついているのである。(271-2)

 最後に、参考文献から気になるものをメモだけしとこう。いつか読む日がくるはずだ……
asin:4782800894行為と出来事の存在論―デイヴィドソン的視点から行為と出来事真理と解釈論理と会話表現と意味―言語行為論研究言語哲学大全〈4〉真理と意味

  • 追記

この本、発語行為、発話内行為については詳しく議論されているけれども、発話行為の範囲を意図説にもとづいて定義するがゆえに、「意図せざる結果」を招きうる発話媒介行為についての説明はされてないのがおしい。(発話媒介行為は焦点に入ってないことはちゃんと註に書いてあるからないものねだりなんだが……)発話媒介行為についての良い本・論文があったらぜひとも知りたい。