真理とディスクール

真理とディスクール―パレーシア講義

真理とディスクール―パレーシア講義

 読了。訳者が中山元さんだからか、それとも講義だからか、とても読みやすい文章。「パレーシア(真理を語る者)がどのようにしてさまざまな〈問題〉として構成されていったか」を分析することが目的とされているが、読後感としてはパレーシアの変遷とその時代ごとの状況におけるパレーシアの条件や種類について考察したものといった感じ。
 フーコーといえば「権力」だが(おそらく)、「パレーシアは告白といった「権力」そのものの分析じゃないよ」ということが後半の方で、強調される。

 これらの異なった鍛錬ではどれも、魂の奥深くから秘密を掘り出してきて、それを開示することは求められていないということです。重要なのは、自己と真理の関係、自己と理性的な原則の関係です。……自己の真理はまず、世界、人間の生、必要、幸福、自由などについての一般的な命題に基礎をおいた理性的な原則にかかわるものです。そして同時に自己の真理は、行動の実践的な規則にかかわるのです。(242-3)

 これらの鍛錬は、いわば「自己の美学」の一部を構成するものです。こうした鍛錬では、自己にたいして、判決を宣告する判事のような位置に立ったり、判事の役割を果たしたりするのではありません。こうした鍛錬では、技術者、職人、芸術家のような役割において、自己と向き合うことができるのです。(244)

 そもそも権力と真理の関係も問われるべき問いなんだが(なぜなら真理=権力とは限らない)、ここでは真理と主体の関係の方に注目しているわけでした。