入不二ウィトゲンシュタイン

 入不二さんはすでにある議論のつぼをさらにラディカルに考えて、二項対立をぶっ壊す的な思考をいつもしてくれる。ここでは、「私」の固有性と言語との関係が、「私」の特異性がませばますほど、「私」は消去されていく、という一見矛盾する命題によって説明がされる。けど、読めば、「うん。そうだね」と言わざるをえない感じになっているのが、すごい。

以下、個人的めも。

  • 比類なき「私」を語るための矛盾した運動

 X:Y=Y:Z(Z=隣接項のない全一性)は、この類比関係から独立にそれ自体で表現することはできない。ゆえに、このような「類比」をたどること自体が、Zを指し示すために本質的な運動なのである。/「私の固有性」=Yが、「私の感覚」=Xに対して持つ「高次の私性」が今度は「私の固有性」=Y自体を乗り越えるように働くことが、「類比」をたどることに他ならない。そして「類比」をたどり「私」の強度を上げていくことは、逆に示唆的な意味を「私」から消し去っていくことになる。(90-1)

  • 規則の偶有性と規則適用の絶対性

 「別の(異なる)規則」はありうるが、「別の(異なる)適用・遵守」はありえない。もちろん、「適用・遵守」を、原事実のままに留めないで、メタ規則(規則への従い方の規則)として明示化すれば、別の(異なる)メタ規則はありうる。……すなわち、この水準における一致には、他の(別様の)一致ということが原理的にありえないのである。いわば、「われわれ」には他者が存在しない。このような「一致」の水準こそが、「われわれの一致」である。(102)

  • ディレンマがもたらすもの。可能性。

 このように消え去り見えなくなることは、「私」の強度と特異性にもっとも相応しいポジションが与えられたことでもある。「私的言語」「私的なもの」を逸しつづける言語ゲームの移行運動は、逸しつづけることによって「私的言語」「私的なるもの」を潜行伴走させている。逆に言えば、けっして姿を現すことのない「私的言語」「私的なるもの」が、諸言語ゲームの「類比な的移行(家族的類似)」のなかに遍在している。……(それは)肯定も否定もできないから端的に「ない」のではなく、肯定も否定もできないまま言語ゲームに潜行伴走し続けるのである。(118-9)