イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

イデオロギーの崇高な対象

ジジェクぷちまつり
幻想とイデオロギー絡みのところをひさしぶりにちょろっと再読。
幻想は「どのように欲望したら良いか知るための見取り図」だとか、まあ、ほとんど同じようなことを言ってるんだが(笑)


以下、幻想の閉鎖性からの脱出可能性について。

ラカンの理論のもっとも過激な次元は……〈他者〉、すなわち象徴秩序そのものもまた、根源的不可能性によって棒引きされ、抹消されているということ、不可能な/外傷的な核をめぐって、つまり中心的欠如をめぐって構造化されているということを認識したことにある。〈他者〉の欠如がなかったら、〈他者〉は閉じた構造となり、主体に開かれた唯一の可能性は、主体が〈他者〉の中へとみずからを全面的に疎外することだろう。したがって、まさにこの〈他者〉の欠如のおかげで、主体はラカンが分離と呼ぶ一種の『脱ー疎外』を達成する。」(191)


ほんで、幻想と変容可能性について。

「だが、『空想を生き抜く』ことによって、われわれは同時に症候と同一化しなければならない。『ユダヤ人』に帰せられている諸属性の中に、われわれの社会システムそのものの必然的産物を見てとらねばならない。『ユダヤ人』に帰せられている『過剰』の中に、われわれ自身についての真実をみてとらねばならない。……したがってシステムを改良すれば根絶できるように思われる現象すべてが、じつはシステムそれ自身の必然的産物であり、『真理』、すなわちシステムに内在する敵対的性格が噴出する点であることを証明したことである。『症候に同一化する』とは、『過剰』の中に、つまり事物の『正常な』状態の混乱の中に、われわれをその真の機能に導く鍵を見出すことである。」(200)


幻想を通じてしか「鍵」(幻想に入ったあとにしか見つからない鍵!)は見いだせないと。
良くも悪くもステップとして、幻想は必要ということで。


ちなみに、この本で空想と訳されてるのは、Fantagyなんで(→英訳はこちら)、
今の言葉の使用では「幻想」って方があってる。