フーコーの穴

フーコーの穴―統計学と統治の現代 (明治大学社会科学研究所叢書)

フーコーの穴―統計学と統治の現代 (明治大学社会科学研究所叢書)

  • 重田園江,2003,「正しく測るとはどういうことか」

 グールドの『人間の測りまちがい〈上〉―差別の科学史 (河出文庫)』についての紹介からはじまり,その著作のなかの「遺伝決定論vs社会環境論」という議論のなかではあまり明確に問われていない問い「正しく測るとはどういうことか?」を問う論文.
 現在の教育状況では、ビネが抱いた知能多元論(子ども自主性を尊重)に近い議論がされているけど、それのよくないところとして次の引用。

 こうした教育は,一見すると,生徒の個性と自主性を尊重する実り豊かなものに見える.これに対して,ここで「作られた主体性」や「強制された個性」といった表層的な批判をくりかえすつもりはない.……こうした「多元的」で活動的・実践的な教育は,ビネの思想に見られるように,学ぶ力や意欲や努力や学習態度を測定し,さらに道徳観や正義感,または自主的に問題を発見し,学校の内外を問わずさまざまな活動に積極的に参加するか否かを,「測定し,評価すること」によって成り立っているのである.このことは,個性の教育が空回りしてしまっている.あるいはスポーツやボランティア,学校外の活動や家庭生活までが学校の監視下におかれてしまうといった批判の根底にある問題点のように思われる.一人の人間を構成する,必要なあらゆる側面が,測られ,記録され,評価の対象となる.測られる意味があるものとないものの選択基準は,社会に適応するのに役立つか否かである.それは,子どもを多面的に捉え,豊かな生活や社会への適応を身につけるために「善意」からなされることかもしれない.勉強はだめでも別のところに才能を発揮する子どもを発掘するという意図があるかもしれない.だが,こうした教育が実践される際には,学ぶ意欲を学ばせられ,主体的な興味を持たされ,問題発見能力を培われ,それらすべてを「測定される」こともまた事実である.知能テストと学力試験だけしか評価の対象にならなかった時代には,学校では評価されない「何か」によって,他に行き場があった者たちもいたはずだ.彼らは,新しい評価基準では,単に勉強ができない子ではなく,社会に適応するためのスキルを欠いた子になる.こうした子どもたちは,学校・家庭・地域社会という「コミュニティ包囲網」による,総合的学習と多面的評価によって,逃げ場を失っていくのではないか.(160-1)