実在論と反実在論:ダメットとマクダウェルの場合
さてさて、今日は以前読んでいた『ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ)』と『道徳的実在論の擁護 (双書エニグマ)』をまとめたものをさらにまとめてみたので、ちょっと整理してみよう。
- ダメットの場合(主に議論の対象は数学)
ダメットの言う実在論とは,
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- 言明の真理値を原理的に知ることができないのに,その言明が真か偽だと主張する
それで,反実在論の特徴は,
でも,ダメットの反実在論は,数学では成功をおさめているが,他の文脈では異論があるらしい.
以下、以上の主張に関わるとこを引用。
反実在論者は,経験を越えた概念の習得を決して否定するわけではない.さらに,論理実証主義のように,検証できない言明はすべて無意味だと主張するわけではない.反実在論者は,連続体仮説が無意味だと言っているわけではないし,山の南側で羊がどう行動したかについての言明が無意味だと主張するわけでもない.問題なのは,そういう実効的に決定できない文をわれわれが理解するか否かではなく,そういう文の理解をどう説明するか,その説明の仕方であり,その点で実在論的な説明は適切ではないというのがダメット的反実在論のポイントである.このことはきっちり押さえておかなければならない.(136)
われわれが所有しうるのは,習得しうるものだけなのである.使い方を学ぶという経験的プロセスを通してのみ,われわれは概念の把握に到達できるのであり,その意味で,その把握される概念は認識可能性を超えるものでもなければ,証拠的連関を超えるものでもない(132)
- マクダウェルの場合(道徳が対象)
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- 内在的(本質的)な価値の客観性は否定されるが,手段的な価値の客観性が否定されているわけではない.
- 「盗みは悪である」といった内在的な価値判断であっても,その判断がある社会の内在的価値に関する報告である場合,それはその社会の価値に関する経験的な事実判断であって,真偽が問題になる判断となる.
- 「盗みは悪である」という内在的価値についての判断は事実によって真となる判断として確証されないと主張.それは「主観的な判断」であり,道徳的態度の表明であって,真偽が問題となる客観的判断ではないと主張しているのである.
そこで、こんどは道徳的実在論の特徴
以下、ハイライト的なとこ引用。
われわれは日常言語を理解し,反省能力を具えているが,ソクラテスの「無知の知」が示唆するように,道徳的価値表現が表す意味のすべてを「知って」いるわけではない.したがって,その意味を学んでいかなければならないが,われわれは歴史的文脈の中で生きる個人なのであり,その意味理解の深化のプロセスは個人的,私的なものとならざるをえない.道徳的経験において「民主主義」は成立しないのである.「勇気」が何であるかを知るためには,われわれは勇気のある人の言動を注目することによってその概念を学ぶとともに,最終的にはわれわれ自身が「勇気ある人」にならなければならない.(119)
ここでは議論を単純化して,道徳的実在論者たちの基本的な方向を述べておきたい.それは,すでに指摘してきた,次のような考えである.すなわち,小前提における「状況の知覚」を強調する実在論者の見解の根底にあるのは,「状況がもつ道徳的特性は道徳的感受性(moral sensibility)を持つ人にとってのみ見えてくる.」という洞察である.(204)
マクダウェルとダメットのあいだでの議論の相違点については、金子さんの方の本でいくつかとりあげられているけども、少なくとも両者が仮想敵とする実在論と反実在論の定義が微妙に異なっているあたりがうっとおしい……。もちろん大枠での議論の一致はあるんだけど、込み入った議論になってくるとまたややこしいことになってくるんだ。