「公共性」論の中間まとめ

「公共性」論

「公共性」論

 とりあえず、六章までかんたんに議論をまとめてみるよ。六章の最後に問われている問いが「よき全体主義(=公共性が堀崩されていく地平)の可能性にたいしてもう少し肯定的になるべきでは?」なので、そこへ向けて一章からの議論をまとめると、

一 「公共性」と「市民社会

  • 公共性の論じ方には二つの道があるよ
    • 公共性を市場や国家の外側に置いて、それらを批判する路線=グラムシとかカルスタ政治路線=みんなのためになる公共性
    • 公共性を市場や国家を含む市民社会(=私的自治を認める世界)=スミス的市民社会論=私的利益のためになる公共性
      • 後者のみちを選択するよ

二 公共性の理論(は可能か?)

  • 生活世界と社会システムのズレを埋めることが公共性だとすると……
    • 少なくとも社会システムに埋没して生活すること(=動物化すること)が悪いことだろうか?
    • 「何のための『人間化』?」という問いにたいして、肯定的に答えることはむつかしいんじゃない?

三 人工環境のエコロジー

  • アーレントの言う公的なもの=仕事とか世界について考えてみるよ。そのことで、どこまでが公共性と言えるか考えてみよう。
    • 建物とか芸術だけでなくて、道具とも言える言語・文字・出版もまた公的なものと言えるんじゃなかろうか。
    • でも、アーレントのいう公的なものは、消費の対象(=私的なもの)ではないんだよ……。
      • だから、これらが消費の対象としてだけあるのなら、これらは公的なものの媒介とはならんのだ。
      • でも逆から言えば、読み手と聞き手のあいだにコミュニケーションの意図があるとすれば、そこには公共性があるんだといえるんじゃないかい。
    • その結果、ここでは道具的理性=受動的で動物的なモード、コミュニケーション理性=情報伝達の意図を意図するような能動的モード
    • さらに、この意味では、公共圏はひとつじゃなくて、社会的分業におけるさまざまな領域における公共圏がありうるということになるよ。

四 リベラリズムアイロニー

  • リベラリズムの言い分「個人の自由な選択にまかせよう」
  • コミュニタリアンの言い分「任せてたら、弱肉強食で滅んでいく価値がある。から、共同的に擁護しよう。」
  • ノージック的なリベラリズムで行ったら、島宇宙化=動物化しちゃんじゃないか、という危惧はある。
    • なぜなら、社会としての多様性は保持できても、島宇宙だったら、社会の多様性にたいする個人の関心を掘り崩しちゃうよ(=自己論駁的)
    • これにたいして、コミュニタリアンは、個人にとってもその意義を感じ取れるように制度設計せなあかん、と批判してるんじゃないかしら。
  • こうやってみてくると、リベラリズムにおいては、動物化の議論てそんなに突飛じゃないじゃない?

五 他律的/ひ弱なリベラリスト

  • リベラリズムは政治思想ではなくて、政策思想です。
    • なので、実はその内容にかんしては、無主義なのです。
      • 制度(管理側)としてはリベラルである方が好ましいけど、全員が逞しいリベラリストである必要はないんです。
      • つまり、動物化した世界に生きる(=僕は僕、彼は彼で相互不干渉)のであれば、全員が逞しい政治リベラリストである必要はない。
  • このような他律的リベラリズムにおいて、公共性はありうるのかといえば、
    • 消極的に(=いざとなれば変えることができるよ)規則・慣習の維持にコミットしているかぎりにおいては、公共性にコミットしてると言えるんじゃないか。

六 環境管理型権力全体主義

  • 藤田の安楽の全体主義アーレント全体主義論・忘却の穴の議論とかでてくるけど、そこから導き出そうとするのは、
  • 搾取(=ローザルクセンブルグ的)なき「安楽主義」が可能であるとすれば(というか、経済理論的には健全な取引の理論の方が正当でもある)
  • 「よき全体主義(=公共性が堀崩されていく地平)の可能性にたいしてもう少し肯定的になるべきでは?」