言語哲学大全2はつづくよ

言語哲学大全2 意味と様相(上)

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第三章 分析性の退位――「経験主義のふたつのドグマ」

  • 意味はどうやってきまる?
    • 1.その指示対象によって:フレーゲの宵の明星とかの議論でも反駁されてるよ
    • 2.言語表現とそれとは独立な存在者とのあいだにある関係性によって:言語以前を想定するべきではないよ
    • 3.物をある形に従って分類し、その結果あらわれるよ:この分類は、言語表現からなる集合であって、プラトニズムじゃないよ

 → でも、これがクワインの攻撃対象となるよ。

 現代の経験主義は、ふたつのドグマによって大きく条件づけられている。ひとつは、分析的である真理、すなわち、事実とは独立であって意味に基づく真理と、綜合的である真理、すなわち、事実に基づく真理とのあいだに、ある根本的な分割があるという信念である。もうひとつのドグマは、還元主義である。すなわち、有意味な言明はどれも、直接的経験を指す名辞からの何らかの論理的構成物と同値であるという信念である。(194)

  • でも、ひとつめのドグマについての最近の評価は手厳しいらしい。

パトナムなんか、「クワインは同義性をどう定義したらいいかわかんない」って言ってるようなもんだって言ってる。

  • 根元的規約主義の立場
    • すべての有意味な言明は、直接経験についての言明に翻訳可能(205)
    • 論理実証主義において、分析的とア・プリオリは同義の言葉として使われるけど、実は異なるよ。
  • 経験主義のふたつのドグマがもたらす哲学的教訓とは?
    • 「なんで個別的言明に関して、その真理性の言語的要因と事実的要因とについて語ることがナンセンスなのか」(=解離不可能性のテーゼ)
    • また分析的真理をプラトニズムでなく、経験から導きだすことができるようになった。

 「独身者は結婚していない」が真であるのは何によってかという問いに対して、この言明が分析的真理を表現しているからと答えることは、その限りで正しい。だが、この言明が分析的であるがゆえに真であるという信念は、世界についてのある信念――独身者に関する普遍的法則は存在しない――と切り離すことができない。よって、解離不可能性のテーゼ(A)はが分析的真理の非存在の主張(C)を含意するのではないか、という先の問いには、否定的に答えることができると思われる。(238)

    • パトナムによれば、クワインの真価は「「分析―総合」の区別を否定したところではなく、「ア・プリオリ―ア・ポステリオリ」の区別を否定したこと」にあるよ。
  • ドグマなき経験主義:全体論的言語観
    • 論理実証主義とはことなるとこ。
      • 経験的言明の検証が直接的観察だけに頼ってなされることはない。=クワインの議論における推論の必要性
      • 数学・論理を特別視しない。改訂が容易か否かという程度の差があるだけ。
  • 全体論的言語観の困難
    • 解離不可能性のテーゼを認めるものは、ア・プリオリな真理の存在を認めないと、意味を失うよ。

 自分で書いてて、意味わからんくなってきた(笑)。最後に、飯田センセがワンパラグラフ全部引用するだけの価値があるというクワインの文章を。

 地理や歴史といったごく表面的な事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理に属するきわめて深遠な法則に至るまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周辺に沿ってのみ経験と接する人工の構築物である。言い方を変えれば、科学全体は、その境界条件が経験である力の場にようなものである。周辺部での経験との衝突は、場の内部での再調整を引き起こす。いくつかの言明に関して、真理値が再配分されなければならない。ある言明の再評価は、言明間の論理的相互連関のゆえに、他の言明の再評価を伴う――論理法則は、それ自身、体系のなかの更なる言明、場の更なる要素に過ぎない。ひとつの言明が再評価されたならば、他の言明をも再評価しなければならない。そうした言明は、はじめの言明と論理的に連関している言明であるかもしれないし、論理的連関そのものについての言明かもしれない。だが、場全体は、その境界条件、すなわち経験によっては、きわめて不十分にしか決定されないので、対立するような経験がひとつでも生じたときに、どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある。どんな特定の経験も、場の内部の特定の言明と結び付けられるということはない。特定の経験は、場全体の均衡についての考慮という間接的な仕方でのみ、特定の言明と結び付くのである。(240)