他者の声、実在の声

他者の声 実在の声

他者の声 実在の声

 図書館でパラパラとしてたら、興味あるところが開いたのでメモしとこ。
..ψ(。。)メモメモ...

 もし相対主義が異なる概念体系の存在を主張することで、あたかも複数の異なる概念体系を見比べることができるかのようなところ(堅苦しい言い方をするならば、「超越的視点」)に立とうとするならば、それはむしろ完全に相対主義を裏切ってしまっているということだ。自分たちの引き受ける概念体系をもってはじめて、認識は可能になる(「超越的視点」に対比して言うならば、「内在的視点」をとるしかない)。いま紹介したデイヴィッドソンの議論は、自分たちの引き受けている概念体系にあてはまるものしかわれわれは理解できないということを押し進めたものであり、その意味で、むしろ相対主義を徹底したものとさえ言えるだろう。そしてそうであるならば、相対主義は徹底されることによって解体され、消滅するしかないようにも思われる。(292)

 相対主義とは、自分の言葉を新たなものに変えていくことができるという予感に賭ける、ひとつの態度、生き方にほかならない。(294)

  • 概念体系の変化による「成熟と喪失」

自分はつねにかつての自分よりも豊かなものに成長してきた。単調増加の成長物語。過去を振り返ってそれを語り出すと、そうなるかもしれない。でも、それは実情なのか。ほんとうに子どもの頃の自分の概念体系はいまの自分の概念体系の部分なのだろうか。どうもぼくにはそうは思えないのだ。/きっと、子どもの頃の自分は、あるいは大学生だったころの自分は、いまの自分の概念体系をはみ出たものをもっていたに違いない。そんな気がしてならない。でも、そんなはみ出たものを、いまはもう理解することはできない。だが、だからといって、デイヴィッドソンの議論を適用して、そんなものはないと切り捨てる気にはなれないのだ。それが何であったのか、いまはもう語り出すことはできない。未来の自分の概念変化が「予感」としてしか現れえなかったように、それもまたひとつの気分、ただし抜きがたい強固な気分として、現れるしかない。(296-7)