時間と絶対と相対と

後半部分を復習する。めも。
 

相対主義の自己適用をいったん認めるならば、相対性は高階へと解放され、相対化の運動に原理的には終わりがなくなる。つまり、ある主張(T)が、ある枠組みや観点(X1)へと相対化されても、そこで相対化がストップする保証はない。TがX1に相対化されるという主張もまた、さらに別の枠組みや観点(X2)へと相対化されうるし、さらにその相対化もまたX3へと相対化されうる。その相対化は無限に続くことが原理的に可能である。これは、最終的な枠組みや観点などは原理的に存在しないということである。したがって、相対主義とは、どこまでも完結しない相対化の運動である。(145)

 「相対化」の可能性の先端は、ここにある。一つは、反復する「私たち」というあり方。「私たち」は、外側と内側のレベル差を反復することによって外部を持たず、他の選択肢を持たないことによってそれでしかありえない(唯一である)。もう一つは、その反復する「私たち」の中に、その成立の不可能性も刻印されていること。つまり、「私たち」の反復を可能にしている時間差は、当の反復を不可能にもするということ。時間差は、結びつき(関係)でもあり、断絶(無関係)でもあるからである。……相対化の運動によって生み出される「私たち」という絶対的な(対を絶する)あり方も、当の相対化の運動が時間差(無関係)によって無効になってしまうという仕方で、相対化される。相対化の運動を可能と不可能にするものが接触するところが、相対主義純化され蒸発する地点である。(153)

 相対化の運動は,仮想的な時間差によって可能になり,仮想外の・現実の時間差によって不可能になる。しかし,相対化の運動が不可能になる地点にこのように言及することは,相対化の運動の成立自体を相対化することに他ならない.そのような意味で,相対化の運動の不可能性も,まだ相対化の自己適用の範囲内にある.それは,時間差における「断絶」「無関係」が,時間差における「関係」を経由した後で,その切断としてのみ言及されるということに由来している.(157)

「実在」は,私たちの認識からはるか遠くにあって届かないから「私たち」から独立なのではなく,私たちの認識がつねにそこを通り過ぎてしまっているしかない手まであるからこそ,「私たち」から独立なのである.(158-9)

 時間差における「無関係という関係」にまで相対主義純化され,「無関係と関係との無関係」を前にして,「私たち」(相対化の運動)は無力になる.(159)