ライプニッツ

 この本を読んで、ライプニッツモナドにたいして抱いていたイメージが変わった。
これまでまともにライプニッツ本を読んでいたわけではないですが。
 とりあえず、教えてもらったことは、モナドは閉じつつも開くということ。
(とはいえ、目的とか意志とかけっこう理性的なんだけどね)あと、モナドと強度の話とかも。


 さて、この本の大事な問いについての答えは、以下。

事実として、すべての個体は唯一者としある。その事実の地平にとどまるかぎり、「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」という問いは意味を持たないし、問われることもない。そういった事実の地平にとどまるのではなく、事実に対して「なぜ」と問うことは、事実とは別の地平に立つことである。それは事実としてあるこの〈自分〉の視点から、位置をずらして、ものを見ようとすることだ。……「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」を問うとき、この〈自分〉は、世界に埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その唯一性が意味を持つような存在者としてある。求められている唯一性とは、唯一者のうちに現れてくる唯一性なのである。/簡単に言ってしまえば、「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」という問いの答えは、その問いを行っていることそのものなのである。(107-8)


関連部分をもそっと。

〈自分〉が唯一であるとは、唯一であることに気づいている限りにおいてである。……そして、唯一であることを考えた結果、その考えた内容が、そのつど〈自分〉の中に組み込まれて、〈自分〉の唯一性を考え直すことになり、新たな唯一性が成立する。唯一性とは常に生成する限りでのみ唯一性を保持できるものである。同じことになるが、〈自分〉とは常に新しい〈自分〉に変化し続ける限り、同じ〈自分〉であるような、不思議な存在なのである。/〈自分〉と、」そうなりえたかもしれない、無数に多くの〈自分〉の異本(variant〈自分*〉と表記したい)との間にせめぎ合いが常に行われているのだ。つまり、一つしかない〈自分〉と無数に存在する〈自分*〉との間の比較において、現実の私の方が実現し、しかも一つしか成立しないこと、そこに〈自分〉の秘密がある。せめぎあいのない〈自分〉もそれ自体、世界に一つの存在者だが、そういう〈自分〉は、「死んだ」唯一性しか有していない。(101)

個人的にはちょっと前に読んだ、「〈つまずき〉〜」よりも好き。