愛について

愛について―アイデンティティと欲望の政治学

愛について―アイデンティティと欲望の政治学

 今日は、5章「〈普遍〉ではなく〈正義〉をーー翻訳の残余が求めるもの」を再訪。
 タイトルの答えはこの章の最後の2段落に書いてあるよ。はしょらないと、長いなこれ。がんばれ、自分。

 したがって普遍の再演を、「言語の非超越性」や「新しい社会の想像」の次元で捉えて、普遍の無限の再構築という、一種、俯瞰的な展望を提示することは、結局、「普遍」と「個別」、「共通性」と「差異」の往還のなかから、その個々の場面で「吐き出される怒り」と、怒りの現在的な非収束性を奪ってしまう。パフォーマティブなずらしや比喩的形象による縫合をとおして、旧来の普遍の指示対象は融解し、オルタナティブな普遍が登場するかもしれない。だが、オルタナティブな普遍も、普遍であるかぎりにおいては、正義への訴えかけの狂気を削ぎ落としてしまう。オルタナティブな普遍の登場は、正義への訴えかけが当初から意図していたものではなくて、事後的に構築された結果にすぎない。たしかに、表象不能なものに正当な表象を与えるあたらしい制度(オルタナティブな普遍)は、〈聞きえぬもの〉を語り、〈語りえぬもの〉を聞こうとする翻訳が一義的に求めていた「正当さ」の成就ではある。だが沈黙化の暴力に挑戦する狂気は、事後的になされる偶発的な普遍の再演をつうじて、言語の縫合作用のさらに奥深くに縫い込められ、翻訳のさらなる残余として残される。
 だから普遍の舞台でくりかえし上演されているのは、普遍そのものではなく、狂気であり、もっと正確に言えば、普遍を演じる狂気の挫折であり、終わりのない翻訳に否応なくわたしたちを駆り立てるものは、その挫折した怒りが発する正義への訴えかけではないだろうか。(307-8)


 デリダの「正義にかなう決断はある種の狂気だ」という言葉を引いて、ラクラウやバトラーが語る普遍のズラシでは「語りえないもの」=正義=狂気という局面、つまり、抑圧された者の苦しみ、もがき、苛立ちを表現しようとしている。
 けれども、そこに焦点をもっていくと、アクティング・アウトとかメランコリの良くない方向に向かってしまうじゃ?
 たぶん、この点については、その後の論文「暴力のその後……ーー「亡霊」「自爆」「悲嘆」のサイクル穿て」で取り組んでいる。こっちの論文では、狂気という言葉は暴力という言葉に代わってはいるけど、どっちの言葉も同じようなことをさしている。つまり、「語りえないもの」を語ろうとするときに伴う、(他者と自己への)暴力の連鎖をなくすために、どうしたらよいか考えてる論文。ヘーゲルの節からよくわからなくなってきた。勉強不足だな。


以下、要読。
オイディプス王 (岩波文庫)  コロノスのオイディプス (1973年) (岩波文庫)  アンティゴネー (岩波文庫)