〈つまずき〉のなかの哲学
- 作者: 山内志朗
- 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
- 発売日: 2007/01
- メディア: 単行本
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大黒センセイの「あとがき」に書いてあった本で、哲学を「謎」としてみていこうというもの。
コーラ・ダイアモンドという人のウィトゲンシュタイン読解を参照しながら、謎とどっぷりかまえるウィトゲンシュタイン像を描くところがおもしろかった。
あと、個人的に好きだったのは、第3章と第5章で、模倣と私と唯一性についてふれている。たとえば、
「唯一性とは所与のものではなく、獲得されるものであるということだ。……『「なぜ私は世界にひとりしかいないのか」を問うとき、この〈自分〉は、世界に埋没して存在するのではなく、唯一性を反省する限りで、その唯一性が意味を持つような存在者としてある。求められている唯一性とは、唯一性を考える唯一者のうちに現われてくる唯一性なのである(山内志朗『ライプニッツ』)。』」(110) けども、「唯一性を考えることで現れる唯一性というのは、間違ってはいないが、自分のしっぽをくわえてグルグル回るコマネズミのようになる可能性もある。唯一性を考えることで現れる唯一性で止まるのではなく、もっともっと遠回りする必要があるのだ。」(110)
そんで、この迂回のひとつの方法のとして、芸術的「表現」述べられている。
「『私』が『私』を認識できるのは、『鏡』を通して、〈謎〉においてなのだと言いたいのだが、その際の『鏡』とは、表現を映し返してくれる他者なのだと思う。そして、その表現は、この節では、言葉の上に載るメッセージを主に考えたが、当然他にも、身振りや身体言語が含まれる。すると、『私』というのは多くの層からなるものだと言える。」(120-1)
んで、この多層からなる『私』が『私』というハビトゥスと呼ばれてて、つぎのような感じのまとめかな。
「『私』というのは……ハビトゥスであると言い得るだろう。反復学習によって沈殿し、表に現れ続けているもの、人ととなりとしてそこに常に現前し、現実化しているもの、〈体〉によって覆われ隠されている「私」ではなくて、肉体と座としてそこに現在化し、安定した行動の「型」のなかで、緩やかな同一性を保ち続け、反復され続けるものが「私」であるとすれば、それが「ハビトゥス」の一種であることは当然のことであろう。ヤマウチは、「私」とは、精神でも肉体でも脳でもなく関係でもなく、「ハビトゥス」であると考えたい。」(128)
全体的に語り口と同様に、大まかな議論ではあるんだけど、けっこう示唆的なことを言ってて、おもしろかった。哲学のひとってけっこう、自分のことをネタに話す人が多い気がするけど、なんでだろう(笑)というか、自分の読む人にそういうひとが多いのかもしれない……
次はこれ↓もよんでみよう。
ライプニッツ―なぜ私は世界にひとりしかいないのか (シリーズ・哲学のエッセンス)
- 作者: 山内志朗
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- 作者: 飯田隆
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