ネオリベラリズムの精神分析
ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)
- 作者: 樫村愛子
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2007/08
- メディア: 新書
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いろんな学者の知見やデータを紹介しながらなので、情報は多く、勉強になる本。こまかいところまで詰めていくと、議論や言葉の意味とかの整合性について考えてしまうけど……
個人的な興味からいえば、「あとがき」でも東さんの動物化論を乗り越えなきゃいけないと言ってるように、やっぱりラカン派の樫村さんが東さんの動物化の議論をどう位置づけ、やっつけようとしているかだ。
(東浩紀対斉藤環、東浩紀対大澤真幸は『大航海』で)。たとえば、付箋をしてあるとこを引用してみると、
「東の『動物化』とは他者の模倣や他者への同一化の機制のもとで成長し、他者(および愛)に依存する、同じ神経症的な構造をもつ主体の中での差異にすぎないと思われる。/東がここで含意する『動物化』とは、人間としてなぜ生きているのかといったことを思考することがなく(実存的でなく)、象徴的なものへアクセスしないということである。通常の主体と構造は変わらず、形式的合理性の論理で行動する『マクドナルド的主体』を指すものと考えられる。/そして、だとすれば、本当に実存的でないのではなく、実存的なものを形として欲望するハビトゥスが形成されていないだけで、実存的な言葉には翻訳されないが、同等の人間的不安や怒り(他者や他者を介して世界と関わる際の)などが彼らに全くないわけではない。」(91)
でもよくわからないのが、象徴界と形式合理性の関係。形式合理性=ネオリベであればお金という身も蓋もないもの=not象徴的なものなんだろうけど、この形式合理性をある種の象徴的なもの=規範とみなすことができるとおもうし、それに対する変容の可能性もありなのでは。
たぶんそのことは、次のこととも関係してる。それは「儀礼というルーティンとマクドナルド的ルーティンの境界線はどこか」ということ。この本ではその境界線を象徴的なものへアクセス可能性/不可能性、再帰化しつくせいないもの/再帰化できるもので引いている。たとえば、
「ここで儀礼というルーティンとマクドナルド的ルーティンが違うことを確認しておかなければならない。両者の違いは、マクドナルド的ルーティンには象徴的なものへのアクセスはないが、儀礼というルーティンにはあるということである。これは、儀礼が再帰化しつくされない伝統的な行為であるということを意味する。」(151)
「こうして、会話分析が抽出している儀礼制度は、伝統的なコミュニケーション制度であることがわかる。これはマクドナルド化とは異なる。なぜなら、マクドナルド化とは、象徴的なものにアクセスしない近代のシステムであり、前近代的な儀礼システムのように、伝統という前近代的な象徴的資源にアクセスすることで社会性を担保することもなく、システム的な合理性の内部で再帰化がなされているものだからである。」(156)
でもこのへんの、境界線をどういう具体的にどういうふうにひいているのかよくわからんのだ。
ちなみにちょっと前にジジェク読んだんで、(おおざっぱな)ジジェク批判のとこもひいとこっ。
「精神分析理論が示すところによれば、人間は幻想に依拠して恒常性を維持しており、自分の幻想からそう自由になれず、他者をそのまま受け入れるわけではないし、ほとんど受け入れていない。だから人間にとって現実とは、ほぼ幻想のようなものだと言いたくもなる。/しかし一方で、人間は全く幻想に閉じているのではなく、幻想を頼りにしながら自分の幻想を脱していく力をもっていくことを見てきた。そこに人が人と関わり合う意味や人や世界が変わる契機があることを見た。ジジェクの議論からはその問題が抜けている。」(268-9)
この本を読みつつ、ふと思いついたけど、ラカンを継承しつつ思考しているひとって、あの三つの界に依拠してそれぞれ可能性をみてるんだな、と。
ジジェク派=現実界、コーネル=想像界、象徴界=誰?とおもったが、やぱりバトラーかしら。内部での反復=パフォーマティヴィティだし。
あ、あと、フランスの事例を紹介して分析した外密性―内密性(274)の議論はちょっと読んでみたい。でも日本訳なさげ……