『カント「純粋理性批判」入門』

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

黒崎政男, 2000, 『カント「純粋理性批判」入門』講談社


読了。
 カントの『純粋理性批判』についてのとても良い入門書。カントの「本当にあるとはどういうことか?」「私たちの法則と世界の法則が一致するのはなぜか?」という問いを中心に、少し寄り道しながらも(この寄り道がまた勉強になる)一本筋のとおったカントの「可能性の中心」に迫っている。
 さっきの問いに対する「カントの答えは、まさに、世界(カントの場合は、〈現象〉)の成立そのものに、人間の主観的原理であるカテゴリーがそもそも関与しているから、というものである。世界が、人間とまったく関係のない〈物自体〉のことだったなら、確かにカテゴリーは世界の説明にア・プリオリに妥当するものではないだろう。しかし、世界とはカントによれば、〈現象〉のことであり、この現象は、時間・空間という直観と、カテゴリーによって、そもそも初めて成立するものなのである。」(133)

 この本を読んでいての個人的なポイントは、カントの悟性と感性に対するイメージが一変したこと。黒崎さんは次のように述べている。


「ここでカントは、概念と直観、悟性と感性の両者の合一によって、認識が初めて成立すると述べている。さらに、具体的な経験に出会うことが重要であるが、認識は単に経験から成立するのでもない、と述べている。」(36)


 正直、これまで感性<悟性と思っていたけれど、感性と悟性の両方によって認識がはじめて可能になるというのには驚き。しかも、この両者のどっちつかず(宙ぶらりんさ)こそが本書で強調されるカントの最高点(=構想力の評価につながる)という重大な論点でもあった。
 (さらに悟性・知性・理性という言葉に使い方の違いについても勉強になりました。(63)「啓蒙とは何か」で悟性って?とは思っていたけど、そういうことだったんですね。)
 ほんで、悟性が真理をとらえうるとカントが考えていたと思っていた自分には、ここでの真理の位置づけも新鮮というか、納得。


「『純粋理性批判』によれば、真理は最初から誤謬や仮象と峻別されてア・プリオリに与えられているようなものではなく、実験や経験の検証を重ねる運動のうちからえられてくるものである。このような真理のダイナミックな性格は、感性と悟性とをともに人間認識の不可欠な契機とし、真理の成立根拠を人間自身のうちにおくことによって、はじめて確立され、基礎づけられたものである。……真理は、ア・プリオリな形で先取的に枚挙されたり、体系性の「高い塔のうち」に存するのではなく、その存する場所は、「経験という実りゆたかな低地」(ともに『プロレゴメナ』付録)なのである。」(188-9)
 

「真理」を人間の手にもたらしたカントは、案外実証主義というか、経験主義なんですね。