権力の批判

権力の批判―批判的社会理論の新たな地平 (叢書・ウニベルシタス)

権力の批判―批判的社会理論の新たな地平 (叢書・ウニベルシタス)


第二部 社会的なるものの再発見 フーコーハーバーマス

第4章 フーコーの歴史的言説分析:記号学的に試みられた知の歴史のパラドックス

 『知の考古学』が体系的にその端緒とした問題は、フーコーにとって、主として自己の固有な文化の民族学という試みが課す方法論上の課題に関連して生じた。社会理論を外部観察者の位置に移動させ、その結果、社会理論は自己の文化に対する民族学であるかのように現われる。こうしたことが可能になるには、社会理論をそれが慣れ親しんでいる思考モデルや現実把握から異化するような、方法論上のさまざまな努力が必要である。……フーコーは以下の確信を明らかにする。文化の近代を規定する思考モデルは、構成的自我や、意味につながれ意味を創出する主体の理念という哲学的想定にその根拠を持っているのだ、と。すなわち、自己固有の文化において支配的な現実理解から社会理論が方法論的に距離をとるためには、主観哲学に刻印されたあらゆる思考形象を体系上取り除くというかたちをとらねばならない。(190)

 → それゆえ、フーコー記号学構造主義のモデルを主体にあてはめる。けれども、その結果、「当然、このように転換された理論では、モノローグ主体の意味的遂行行為への準拠が禁じられるのみならず、社会的現実全般への意味理解の通路が閉ざされてしまっている。」(191)

 そこでは民族学は、まず存在する社会的世界の意味諸連関に馴染みのないものであるが、そればかりではなくさらに、見知らぬ世界は、もはや意図によって構成された生活連関ではありえないと確信しているように思われるのである。その文化に内在する基本的確信や合理性概念を方法論上括弧に入れることで、慣れ親しんだ自分の文化を人為的に異化しようとする試みに代わり、自分の文化を現実にも、意図から独立し、匿名のうちに規則立てられた社会的な出来事として把握することが試みられることになる。(191)

まとめ

第5章 言説分析から権力理論へ:社会的なるもののパラダイムとしての闘争
(略)

第6章 フーコーの社会理論:『啓蒙の弁証法』のシステム理論的解消

 フーコーの論証の本質的欠陥は、見まがいようもなく次の点にある。すなわちそこでは、単に外から主体に働きかける強制力にすぎないとされた社会的影響力から、まず人間の心的体験内容の形成が導き出され、次にそこに直接「人間の魂」の観念が結びつけられるのである。フーコーが人間主体の成立を実際にそのように考えたのであれば、それは心的事象を絶えざる条件づけの結果として捉える、ごく粗雑な行動主義のなせるわざであろう。そこでは人間は、真実を告白することを強制されて、「それ自体としては」何も存在しない自らのうちに動機や体験を見出さねばならないのである。……ここからしてはじめて、フーコーが人間の身体訓練を肉体と精神の両面に及ぶ歴史過程として捉えることをかたくなに拒む理由が明らかになるのである。(242)……このようにして、もっぱら管理過程のみを重視するシステム理論は、フーコーのさまざまな理論的確信が収斂してゆく拠り所をなしていることが明らかとなる。(248)

フーコーが社会的支配手段の技術的完成過程を分析する際に用いる基本モデルは、自然支配ではなく、戦略的合理性である。彼によれば、社会が監視のための戦略的手段を形成し、発展させてゆかざるをえないのは、人口増大とそれに伴う生産力発展のために、制御の必要性が不断に増大するためである。こうしてフーコーの社会的権力理論は、その歴史研究においてはシステム理論へと退行するが、それは社会的なるものを単に戦略的対決の場として捉えることができなかったためである。すなわち、社会的闘争という概念だけでは、社会的支配関係のように複雑な権力構造の形成過程を説明することはできなかった。フーコーはこうして生じた論証上の難点に触れることなく、近代の権力技術の特性を分析する際に、戦略的行為の代わりにいきなり社会的強制の観念を持ち出すことによって、この難点を解消した。社会的闘争の場としての社会的なるものという元来の概念は、社会的訓育施設の網という構想へと転換し、社会秩序のこうした強制モデルが、フーコーの歴史研究ではシステム理論的形態をとるのである。(254)

まとめ

  • フーコーの権力論は支配過程という負の側面しかかかないよ。
  • だから、権力論では社会的なるものというコンフリクトを消滅する方向へといってしまうよ。
  • それに、フーコーの描く人間像はあまりに行動主義的だよ。
  • だから、争としての「社会的なるもの」を描くためには、ハーバーマスのコミュニケーション論を検討する必要があるよ。

 まあ、昔の本だということで、フーコー理解についても、あれなところがあるわけだが、まあこんなところでしょうか。