おかいあげ

アラーキーはあいかわらずぅぅ。というか、米科学誌表紙にもなってる!! → こちら


アンラッキーヤングメン 2 (単行本コミックス)

アンラッキーヤングメン 2 (単行本コミックス)


 前回のつづき。2巻のあとがきは大塚さんで、1巻で藤原さんが書いてたのと、違うことを目的としているのがおもしろい。

「だから描きたかったのは六〇年代の若者でも、啄木の時代の若者でもない。……強いていうなら、どの時代の若者たちも『アンラッキーヤングメン』としての自意識に苛まされて生きて、あるものは道を外し、あるものは名をなし、そしてたいていのものはありふれた大人になっていく、ということをめぐる絶望的なまでの息苦しさのようなものを描いてみたかったのだと思う。」


 藤原さんが六〇年代の若者の固有さにこだわったとすれば、大塚さんはそうではなく、通時代的な若者の固有さにこだわってみせた、というわけ。とはいえ、大塚さんがこの時代にこだわった理由もあって、以下。

「作中の時代にぼくなりの拘泥があったとすれば、この時代は戦後まんがが『内面の書式』を発見していく時期であった、ということだ。まんが表現が『内面の書式』を立ち上げていく時のもがきのようなものをぼくはこの作品でやり直してみたかった。」


 大塚さんの議論の中心点はやっぱりフェイク論なんだけど(「サイコ」なんてもろ)、Lifeのspinoffヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談」で、宮台さんが言ってたように、世代によってフェイクであることへの重みづけというか、意義づけが全く異なってきているというのは、あると思う。
 オリジナルを目指してのフェイクなのか(フェイクを越えること)、フェイクをべたに肯定するフェイクなのか(すべてフェイクなんだ!=フェイクに内在すること)、このちがいはけっこう大事では。フェイクでしかありえないことを自覚しつつ、それをいかにして越えるかを考える方が、個人的にはすき。