中断された正義

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

中断された正義―「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的省察

 フレイザーの文章を読むと、(よくもわるくも)議論をぴちっと整理するのが上手で誠実そうな感じがする(笑)第9章「間違ったアンチ・テーゼーーセイラ・ベンハビブとジュディス・バトラーへの応答」では、それぞれに対して、次のようなことを批判してる。


ベンハビブへ
・批判の根拠を主体におくことは間違ってないけど、言い過ぎだよ。
・歴史の死とフェミの歴史=物語の可能性は異なるよ 
バトラーへ
・「再意味作用」が、どうして良いものかわからない。
「『批判』」は論理的には、正当な理由や正当化という概念と結びついている。だからその積極的に含意するものは、妥当性への要求に根ざしている。しかしこのことは「再意味作用」には当てはまらない。バトラーの用語には妥当性や正当な理由といった意味合いがないので、その積極的な含意はよくわからない。どうして再意味作用がよいものなのか?悪い(抑圧的な、反動的な)再意味作用はありえないのか?」(326)

たしかにこれはまっとうな疑問。そしてこのことについてバトラー自身はパフォーマティブとか再意味作用それ自体に可能性があるわけではないことを『触発する言葉』とか『Undoing Gender』(10章)とかで言ってるし。


それで、フレイザせんせは両者の中道をいく。
「主体性を、批判力を授けられかつ文化的に構築されたものとして想像してみよう。同様に批判を、状況づけられまた同時に内省を吟味できるものとして、潜在的にラディカルでまた正当な理由に従うものとして捉えてみよう。……最後に、集合的アイデンティティの観念を、言説的に構築されていると同時に複合的であり、集合的行為を可能にすると同時に神秘化を受け入れやすく、脱構築と再構築を必要とするものとして発展させよう。」(333)


解放とか自由とかが言われるとき、「何からの自由」(脱構築)だけでなく、「何への自由」(再構築)なのかをともに考える必要があるのでは、という指摘にはなるほどと。もちろん再構築にともなう困難はあるだろうけども、確かに、多くの議論では、どちらかしか述べられていないような気がする。


 さて、6章は「構造主義か、語用論か?」というなかなか興味深いタイトル。おおむねこんな感じ。
 構造主義(ここではラカンがやり玉)モデルは、象徴化のちからを強く見すぎていて、変化を描くことができないよ。それよりも語用論を選択すべきだよ。利点は1.言説を歴史的文脈化する2.意味作用を表象としてよりも、行為として扱う3.言説の複数性を主張できる(240-1)から。


僕が考えている語用論とだいぶ距離があるんですが、勉強不足か・・・。