ウェブ社会の思想

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか (NHKブックス)

読み終えた。
 とても読みやすく、情報関連にうとい自分にはいろいろとおもしろかった。
いきなりあとがきからの引用であれなんだけど,


今回は、基本的に『カーニヴァル化する社会』の視座を引き継ぎつつ、その未来像にいくばくかの「希望」を見出すことをひとつの目標に執筆された。(260)


 というわりには、「宿命」というかなり悲観的なトーンで議論がすすんでいたような気が(笑)浅野さんの自己物語論の読み方なんかも、僕の読み方と全然違うから、そこらへんはとても興味深かった。僕は、どちらかと言えば物語の可変性とそれをうみだす他者に目をひかれるわけだけども、この著作では語る自己と物語の同一性を承認するための他者という側面が強調されていて。(自己のパラドックスの方へ注目するか、パラドックスの隠蔽に注目するかの差だけかもしれないけど)

 さて、本書のテーマはいろいろあったけど、(記憶から記録へ、証言から事実へとか)個人的にはやはり自己と宿命と情報についての問題設定が興味深い。


言い換えれば、この状況は、「わたし」という存在が、蓄積された個人情報の方に代表されるようになり、そしてその「情報としてのわたし」があらゆる場所に、わたしを先回りして立ち現われるようになるということを意味している。こうした、人が自分の人生に関する未来を選択することと、それが宿命のように、前もって決められていた事柄として受け取られることという、二つの矛盾する出来事が同時におこるようになることは、それ自体として興味深い。そして、本書がその点に注目する理由は、そうした状況の中で、「自分が選んできた人生は、こういう結末しかありようのなかったものなんだ。けれども、それでいいんだ」と自分を納得させることが、特に若者たちの間で、漠然と求められているようになっているのではないかということである。(16-7)


 未来の自己決定を根拠づけるものが自分自身となってしまった時代においては、「情報によって集積される未来」こそが自己の選択の正しさを担保してくれると感じられているという二つのテーゼの位置は互いに排他的に矛盾するというよりも、共存しつつ矛盾するというとこがおもしろい。
 けれども、その後の「自分が選んできた人生は、こういう結末しかありようのなかったものなんだ。」
については、どんなんだろう?という感じがしなくはない。

 さてさて、この宿命論をどう乗り越えて、希望を語ることができるか?「海辺のカフカ」の僕よりも、「戯れ言シリーズ」の僕を評価するチャーリーは「他者と関係することのへの〈宿命〉」(246)を提案している。情報の宿命論とは異なる文脈も意識しながら、次のように述べている。


私が本書で情報化の影響について述べる際に「宿命」という観点を強調したのも、情報化によって宿命的な決定論が前景化するからというだけでなく、若者たちにとって、自分の特別さを、自分の中だけで完結したものとして断定してくれる仕組みが、心地よいと思われるのではないか、という意識があったからだ。そうした前提の下で、自分が宿命的に特別な存在などではない、どうしようもなく「普遍」な存在であったとしても、「ナンバーワン」ではないオルタナティブな特別さを手に入れることは、いかにして可能になるか。本書におけるその答えは、「関係への〈宿命〉」を受け入れることによる、他者からの承認を元手にして、セカイの外の世界を生きることによって、ということである。(251-2)


 ここから、おわりまでは数ページしかなくて、さらに議論をどう展開していくかはわからないけれども、
ここで気になるのは「自己決定の〈宿命〉」と「他者と関係することのへの〈宿命〉」という二つの宿命バランスをどうとるか?ということなのでは?
 たしかに「海辺のカフカ」の僕のようなあり方は、かっこいいがなにかさびしく、悲しい感じがする。でも、その一方で、「他者へ向かう」僕は他者とどのていどの距離をおくことができるのか?
 たとえば、93Pで「友人とのつながり」を感じられないととても不安(つながりの不安)だと感じる人々にとっては、「他者と関係することのへの〈宿命〉」はそれこそ「重たい」宿命として実感されているのでは?と感じる。
もちろん「他者」いう概念をどう区別して議論するかにもよるけれど、この二つの宿命のバランスこそが、焦点になるのではないかと思ったりもする。